遺跡の保存は観光のためだけではない。負の歴史にも目を瞑らないで

投稿者: | 2月 4, 2021

2015年「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」としての一つとして世界文化遺産に登録された「軍艦島」。今や、長崎県の重要な観光資源の一つとなっているらしい。

しかし、輝かしい歴史の裏に、悲惨な歴史が隠れている。

「1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという。」や「この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 – 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3,333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。」との指摘を忘れないでほしい。

歴史の都合の良い利用は許されないのである。

同様にならないか?心配なのが、宮城県多賀城市の「多賀城跡の南門が2023年度に完成、2024年度に一般公開する」というニュースだ。

これについて菊地市長は「南門が完成すれば古代東北の中心・多賀城の一端が再現され、長く市民の誇りになると自負している」と語ったとされている。また多賀城市のホームページでは「神亀元年(724)、大野東人によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。」と一言で語られている。

宮城県のページも同様、「史跡としての価値と魅力」を紹介するのみで、その中に隠された実態に触れたものは見当たらない。

しかし、多賀城は、中央政府による東北征服の最前線基地だったのである。詳しくは「アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」を読んでほしい。

表と裏の歴史を平等に「復元する」ことを望むものである。ゆめゆめ観光遺跡だけにしてしまうことは許されないのである。

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