日本国憲法第19条、第21条について
日本国憲法第19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と規定している。「思想及び良心」の意味については、諸説あるようだが、概ね、「人が考えていること」「内心」の意味に捉えられている。そして、この「内心の自由」は、次の「表現の自由」と異なり、無条件に保障されるべき。
そして「内心」が表に出る場合には「表現の自由」(憲法第21条になり、この場合は一定の制限(いわゆる「公共の福祉」)があるとすることにもほぼ共通の理解が得られていると思われる。
これらの点については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%83%BB%E8%89%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1
河村名古屋市長の主張について
ところで、先日開催された「表現の不自由展・その後」を巡って、河村名古屋市長の主張について考えてみた。
河村名古屋市長の主張については、いろいろの場面で発言・抗議されており、多数公開されている(「名古屋市のホームページ「文化・芸術に関するイベント」の項)が、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(市長サインあり) に集約されていると思われたので、これを中心にまとめた。
(1)「平和の少女像」について
高度にセンシティブな政治的な問題である「従軍慰安婦」の問題を含み、その対立関係を先鋭化させる可能性があり、日本国民感情を甚だ害する恐れが強く、その意味で「公衆に険悪な上を催させる」ものとして、公共の場にふさわしくない作品。
愛知芸術文化センターという公共の場を提供し、かつ作品の展示に住民の税金を拠出する「原義供与」は、行政に求められる政治的中立性と、それに対する社会の信頼を著しく損なうもの。
(2)「焼かれるべき絵」及び「遠近を抱えて」について
天皇は、「日本国の象徴」であり、かつ、「日本国民の統合の象徴」(憲法第1条)であり、戦後の復興に果たした昭和天皇の偉業に対して畏敬の念を抱く国民も少なくない。その肖像写真を意図的に燃やす作品は、その主題自体が甚だ礼を失し、日本国民・社会公衆の多くに著しい侮辱感・嫌悪感を与えるもの。
作品が、「国旗を燃やす所業」に類するものとしてパラレルに考えられるが、外国国章損壊罪(刑法第92条)等で処罰されるような行為は、健全な社会通念に照らし、許容限度を超える。
地方公共団体が、「便宜供与」の対象とするにふさわしい「芸術作品」であるとは思えない。
大前提として
今回の展示で問題とされている作品が「芸術作品」としてふさわしいかどうかは議論しない。私に、この手の見識が不足していることに加え、まさに「芸術作品にふさわしくない」とする表現も保障されるべきと思われるからである。この点では、河村市長も例外ではない。河村市長が内心どのような芸術観を持っていようが自由なのである。
河村名古屋市長の主張に対する疑問について
ここでは、一般国民ではない自治体の首長が「芸術性を云々」し、それを理由に市長の名で自分の芸術観を発表したり、また芸術にふさわしくないから地方公共団体の施設を貸与するなどの「便宜供与」しないという行動は正しいか?を検討する。
(1)河村市長の「芸術性」の主張について
今回の件では、「政治的主張のある作品」「公衆に険悪の情を催させる作品」、「天皇を批判するような作品」は「芸術作品」ではないことになるが、これを公にすることによって「芸術はこうでなければならない」と判断したことになる。これは市長のいう「行政の中立性」どころか、そうは思わない者の「内心」の自由まで侵したことになるのではないか?
一般論として、芸術作品がどのようなものでなければならないかを判断するのは、その鑑賞者であるべきで、自治体の首長であるべきではない。仮に作品が「政治的主張」や「公衆に険悪な情を催させる」ようなものであっても。
(2)憲法第1条について
憲法第1条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定している。すなわち天皇制、あるいは個々の天皇がどのように評価されるべきかを決定するのは「主権の存する日本国民」にある。それを規定したのが憲法第1条である。だからこそ、天皇に無関心や批判的な考え方も存在して当然なのである。
ところが、河村市長は、これを逆さまにし、日本国民は天皇をこう見なければならないと主張したことにならないか?
(3)刑法第92条とパラレルに考えることについて
河村市長は、刑法第92条「外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。」の規定を引き合いにし、今回の展示は「健全な社会通念に照らし、許容限度を完全に逸脱している」と主張している。
しかし、刑法の特殊性(罪刑法定主義)に鑑み、パラレルに考えること自体厳に慎まなければならない。加えて、同法にある「外国の国旗その他の国章」の範囲については、大使館など公的に掲揚されている場合に限定する説、国際競技場など公共の場所に私人によって掲揚されている場合も含む説が対立している現状にあっては、なおさらである。
(4)総じて
今回の展示を巡っては、以上のような疑問があるにもかかわらず、「このようでなければならない」「これ以外のものには」「便宜供与しない」「行政の中立性を侵す」などの考えを表明したことになるが、この表明によってむしろ行政はこんな考えを正しいとしている、こうでなければならない、こうでなければ施設も貸さないし、補助も出さないと表明したことになる。
これは、一定の考え方だけを保護するナチスや戦前の考え方と同じではないか?
望まれるのは、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」との態度ではないか?