2025年6月6日に出された「東電株主訴訟」の控訴審判決に対し、原告はもとよりマスコミも批判的な記事が多かったような気がした。
判決理由についての是非はおいておくことにして、今回の株主訴訟の意義について考えてみた。
株主代表訴訟とは一体どのようなものか?
それは、株主が役員の人向けたい責任などを追求するために提起する訴訟。
会社内部での馴れ合いを不正で、経営に対して緊張感を与える効果が期待されるものだそうだ。
一見すると大変合理的な制度と思うが
会社の経営はそれほど重大な責任を伴うということだから、大変合理的な制度と思うが、でもでもよ〜く考えてほしい。
株主は毎年開催される株主総会で、議決権を講師し、役員の構成はもとより経営方針などに「口を出せる」立場にある。現に、株主総会で「原発廃止や避難路確保などの提案」がなされていいることが報じられている。でもその提案は「採血の結果、株主からの提案は、いずれも反対多数で否決され」ている。
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この点を踏まえれば、株主には経営に対する責任が、役員とともに連帯して有すると思われるがいかがか。これは株主が、役員と同程度の責任を有しているというわけではないが、「全くの無責」にはどうしても思えない。
例は異なって恐縮だが、「酒酔い運転」をやめさせないで、同乗している者の責任がゼロでないのと同様ではないか?
どうも今回の株主訴訟は、「虫の良い話」に聞こえてならない。
福島県民への責任は
今回の株主代表訴訟に関して、福島県への責任を心配する記事も見受けられるが、株主とは別に論ぜられるべきであろう。
なぜか?
それは、株主と異なって、福島県民に東電の経営に関与するチャンスが与えられていないからである。いわば身内の責任と対外的責任とは異なって当然だと思います。