新型コロナ禍の中で東京オリンピックパラリンピック(以下「東京オリパラ」と略す。)の開催の是非が問われている。
以前「復興五輪」としての東京オリパラの実態を検証して、その名目には程遠いと指摘した。そしてそれは、新型コロナ禍で、一層強まったような気がしてならない。
昨年は新型コロナ禍を克服した証として東京オリパラを開催すると発言した方がいたが、今は誰も発言しなくなった。「さざなみ発言」もあるが、命が失われることに「これぐらい」も何もあったものではない。むしろ、医療従事者の犠牲的精神の上に成り立っている今のコロナ対策は「文化国家としての恥」として記憶されなければならないことだと考える。
最近、オリンピックを闇雲に開催する動きに、外国観客なし、選手は宿泊先と競技会場を直行直帰、来賓も選手との接触させずなどの発言が出ている。日本人観光客の入場制限も取り沙汰されている。最終決定は6月末だそうだが。
でも、これはまさに「籠の鳥」の東京オリパラだ。
そして復興五輪なんてどこ吹く風にならないか?「私達があの東日本大震災からこれだけ復興できたのはみなさんの支援のおかげです。ありがとう。」と示すのが復興五輪でないのか。でも、外国観客が一切入国させず、選手も会場の外に出ることが許されずの東京オリパラで何を示そうとしているのか。日本の自己満足を満たすだけのものにならないか?
新型コロナに対する特効薬とされる「ワクチン」接種の動きも、各国の経済的格差に左右されているのが現状だ。うまくやったイスラエルの接種率が抜きん出ているのが目立つが、世界的パンデミックのときにこのような動きが奨励されるべきなのか?ここでは議論しないが。
しかし、この動きは当然選手の準備にも影響を与えるだろう。各国ごとの経済的格差で、ただでさえ準備不足になりがちな国があるのに、新型コロナによってその影響は拡大していることが容易に推測される。
したがって、そんな中開催される東京オリパラは「機会不均等のオリパラ」になるだろうし、もっと言えば日本は「地の利だけで勝利をつかもうとしているオリパラ」になりかねない。
これを「日本の独りよがりのオリパラ」と言わずしてなんというべきか。